希望

院長 辻中 まさたけ

パンドラの箱についての神話を御存知の方も多いと思います。一般的には触れてはいけない事象を意味するときに使われることが多いと思いますが、本来は「希望」について語っている話です。

火をある人間に天界から盗まれたゼウスが怒り、パンドラというすばらしい女性をその弟に送り込みました。好奇心旺盛な二人は絶対に覗いてはいけないというゼウスから持たされた箱を開けてしまった結果、そこからは人間にとっては負の、「恨み」「ねたみ」「病気」「猜疑心」「不安」「憎しみ」「悪徳」などの感情が世界中に広まりました。パンドラはあわてて箱を閉めたのですが、最後に、「希望」だけがその箱に残っていました。人間がどんな境遇にあっても「希望」にすがる、というのは、この神話から取られています。

ただし神話といえども諸説がありまして、その中には「希望」が災いをなすものと考え、「希望」があるために未来がわからず諦めることを知らない人間が永遠に希望とともに苦痛を味あわなければならない、というものもあります。

皆さん、あなたにとって「希望」という言葉は必要ですか、それとも邪魔ですか?

「希望」とは、好ましい事物の実現を望むことを意味する言葉で、「信仰」、「愛」とともにキリスト教における神学的な徳の1つだそうです。しかし、年齢を重ねるにつれ、何をするにしてもひと手間、ふた手間と増え、「希望」は叶わずこころが打ちひしがれることが多くなります。「老い」という避けることのできない現実、そして年には勝てぬあきらめ・・・患者さんの中には、「先生、焼かな治らんわ」と表現される方もいらっしゃいます。しかし、「老人性」という言葉を使わず、「加齢性」とか「長い間、頑張って使ってきたことによる」、などと説明するように努力しております。あの世の「希望」も大事かもしれませんが、医者としては現世において「希望」を持ってもらいたいからです。あまり違いがないとは思いますが、まったくの絶望ではない、ささやかな「希望」を持ってもらいたいからです。民主党が現在政権与党の立場になったのも、皆さんが彼らに「希望」を持ったからです。

凡夫のわたしは、どうしても「無」や「空」の心境にはなることができません。へーへーと生きたいのですが、何も考えずに生きたいのですが、本当に難しい業です。先をどうしても考え悩み苦しむ七転八倒の毎日です。逆に災いのもとになるかもしれませんが、様々な日々の問題の中で、ささやかなそして無駄になるであろう「希望」という燈明を探し続けております。

2010年も「希望」を持ち続けます。

七転八倒、覚悟です。

 
 
 ↑上空より富士山と南・北アルプスを望む

 平成21年12月27日
 
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