無声映画

院長 辻中 まさたけ

最近、ケーブルテレビで1910年代の無声映画を何本か鑑賞した。いまでも当時の映画は物語の内容がしっかりしていて、大変おもしろく鑑賞することができた。逆に現代の特撮を駆使したものが100年後に鑑賞に値するものになれるかははなはだ疑問を感じてしまった。

ところで、当時の映画に出演していた俳優、ましてや風景の一部として映っていた犬や鳥にいたるまでほとんどの生命はもうすでに息途絶えており、そして、私はもちろんのこと死んだ私の父親でさえ1925年生まれなので、映画撮影当時にはまだこの世に生を受けていない。窒素化合物を多く含む今現在の私は、その一部は大気中をさまよう水分であったのだろうか、葉っぱとして存在していたのだろうか、それともある昆虫に組み込まれていたのか、その起源を考え出すとなんとも不思議な感じである。また、最近の新聞に米国のブッシュ大統領とオバマ大統領候補が遠い姻戚関係にあると家系図からわかった、と記事が出ていた。

映画に出てくる活気あふれる人々はもはや夢のまた夢の世界ではあるが、大気圏内にいろいろな形に分散して必ず存在する。中国やインドの人口が増えても地球は重たくなっていないのだから。

私たちはいろいろな物質の縁ある集合体、いずれは死んで分散するが心配することはない。質量保存の原則にもあるとおり無くなることはない。

先日、わたしの伯父さんが97歳の大往生で分散した。昨年のある日、「100年はあっという間だった」、と明治・大正・昭和時代に亡くなった先祖の写真が誰かを仏間で説明しながらポツッとつぶやいていた。

墨俣一夜城にて

 
 
 
 平成20年4月13日
 
TOPページへ