ケ・セラ・セラ

院長 辻中 まさたけ

最近、急に走ると脳が頭の中で揺れるし足の筋肉が悲鳴をあげる。物忘れがかなり多くなり、自分がそのことを忘れないように、そして、言ったかどうかも不安になり、他人に何回でも同じ事を言う。メモは必需品になった。耳が少し遠くなったのか、自分でも聞こえるように、もともと地声が大きいほうなのにもっと大きい声を出すようになった。それでも、まだまだ心身ともに二十歳ぐらいだと思っている。近視用の眼鏡をかけたままでは爪が切りにくくなった。それでも、眼科医でありながら老眼というものを自分自身で許容できないでいる。ふと、自分自身を鏡に映し出すと、老いというもの体から染み出してきている。老いが忍び寄ってきているのが、とても不安である。

般若心経には、「こだわりを捨てる」ことが不安をなくすことだと書いてある。もともと何もなかったのだから、何も失わないよ、勝手に自分のものとこだわっているから自分のものじゃなくなるのではないかと思う不安が沸いてくるのですよ、と。

でも、年を取らずに元気でいたい・・・無理な願いとは解っていても。とはいっても、八苦のうちのひとつである、「愛別離苦(愛するものと別れなければならない苦しみ)」などを経験しながら生きているのもひと苦労です。

矛盾したことを書いているうちに老いを考えるのが面倒になってしまいました。蓮如の言った、「嘆き悲しむ」ことで疲れて、「ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)」という心境になります。それでいいと思います。私を含めた多くの愛しき人々は弱いのですから。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」の中に登場する‘でくの坊君’で行(生)きましょう!

「散る桜 送る桜も 散る桜」・・・仏教書より引用

合掌

 
 
 
 
 
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