患者様

院長 辻中 まさたけ

あなたは、病気になったときに「患者様」と呼ばれたいですか?
先日、ある新聞の投書欄に、医療機関を受診したときに「患者様」と呼ばれ、好きで病気になったのではない、とても馬鹿にされているような気がして情けない思いがした、と書いてありました。なぜ、この方はそのように感じられたのでしょうか?

最近、作家の五木寛之さんの書物をよく読みます。そのなかで、「今日の人間関係は、悲しみより笑い、湿った関係から乾いた関係へと変貌している。しかしながら、様々な社会現象や事件を思うと、今こそ、湿った関係が大事であり、嘆き悲しもう。」というくだりがあります。

今日の医療に関しても、同じようなことが言えると思います。コンピュターを駆使した電子カルテや最新の画像診断などを含め、病におかされている人々のまわりには、乾いた、電気で動く機械がいっぱいです。人と人との湿った関係が昔の医療と比べ、希薄になってきている気がします。時代の流れといえばそれで終わりなのでしょうが、なんだかしっくりきません。

最新の機械等の導入はもちろん大事なことではあります。しかし、医療側も病におかされている人々へのメリットとうたいながらも、実はできるだけ楽な関係である乾いた関係を築き上げようとしているのかもしれません。医療はサービス業の一種であり、最近ではホテルのような豪華設備をもった病院特集が、テレビ等で名湯の旅のごとく紹介されています。設備等の快適性は、たしかに病におかされている人々へのひとつのサービスであり、もちろん否定はしません。しかし、それだけではないと思います。生・老・病・死の四苦に対しての、人と人との「他生の縁」などに基づいた心のふれあい、どろくささが昔ながらに必要ではないでしょうか?豪華設備はそれらのことを打ち消す乾いた関係の象徴ではないでしょうか?「患者様」という、病におかされている人々へのサービス精神のアピールである表現のなかには、「ハイ、ここまで。」という一線を感じてしまうのを禁じえないのは私だけでしょうか?五木寛之さんが言う、「共に嘆き悲しむ。」ということが、今日の医療に携わる私達に何より大切なことではないのでしょうか?
この答えがわかるのは、自分が病におかされた時です。

 
 
 
 
 
TOPページへ