日本の象徴的な樹木である「さくら」、幼い頃は何とも思わなかったが、年を重ねるにつれ、そして、春の訪れを毎年経験するにつれ、この「さくら」の木が意識されるようになった。今までまったくもって何ともないと思っていたでくのぼうみたいな木がここに「さくら」の木あり、と通りゆく者たちに叫ぶがごとく突然きれいな花を咲かせる。そして、見るものに春の訪れを知らせる見事な花は短期間のうちに吹雪となって散っていく。そして、葉を芽生えさせ、夏にはセミを育み、秋には葉を落とした骨格だけの寂しい木となる。
私を含めた日本人は古きより、どうしてこの「さくら」の木が好きで日本の象徴と思うのだろうか?アメリカなどでは花が落ちて周囲を汚したり害虫が繁殖したりするのであまり好まれた樹木ではないと聞く。
見事な花の開花と短期間のうちに散りゆくその姿が日本人の心情にマッチしているのだろう。さらには、四季がしっかりと自覚される日本では、「さくら」の開花が一年という区切りの象徴であるとともに新しい一年の到来を予見させるためではないだろうか?また、年を重ねるにつれ「さくら」が開花した時期にいろいろ経験した事柄が淡い記憶となって留められ、開花とともにそれが走馬灯のように思い出されるからではないだろうか?
なんにせよ、私は年々、「さくら」の木が気になるようになっている。駐車場に「しだれ桜」と「ソメイヨシノ」の苗を植えたのもそのためだ。いつか将来、今は細くか弱いこの「さくら」たちが立派に大きく成長し、きれいな花を駐車場に咲かせ、通りかかった人たちを喜ばすことができれば幸いである、そして、この「さくら」の木々が、生きる人々の淡い思い出の風景の一部になれれば、と思う。
散る桜
おくる桜も
散る桜
最近、この俳句がよく脳裏に聞こえてくる。
平成28年3月20日
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