僕が国立病院より、ここ辻中医院に戻ってきたのは平成4年6月だった。当時の辻中医院は、大阪出身の父元三が昭和29年に内科胃腸科として開設したが、父が病に倒れた後は、姉博子が眼科を主体として診察を引き継いでくれていた。今から振り返るとまだ血気盛んで無我夢中だった僕は、現在の診察姿勢とはずいぶんと違っていた。体力的に余裕があり、たとえ診療がどれだけ遅くなっても、できるだけ患者さんあるいは家族の方に病状を理解してもらおうとしていた様に思う。いまでもその気持ちがあるのだが、体の調子がよくないと、どうも根気がなく自分の納得だけの診療、つまり説明がおろそかになりがちである。しばしば患者さんあるいは家族の方の言動を声を荒立ててさえぎってしまうのは本当に申し訳なく、後で自分で自分を悲しくまた情けなく思う。いい方向への変化もある。それは、人が年を取っていくという事を患者さんから教えていただいた事である。まったく当たり前のことであるが、大学病院医局の人事の関係で、若い医者はいろいろな病院を1年から2年ぐらいの周期でどんどん変わっていく。つまりその場の点的な診療、治療をおこない線的な診療、治療をしなかった。正直なところ、秋には別の病院へ赴任するから前の医者とおなじでいいと、少々の病状の変化に僕は対処していなかった気もする。逆に、初診の患者さんで大変な病気であると、いわゆる近視眼てきな強力な対処をおこない何年も先のことまで考えての診察、治療をおこなわなかった。辻中医院に戻って、今は、ご老人になれていても、子供の時代、青春期があり当時の色々な思い出を胸に秘めて生活をなされている、そして老化にたちむかい一生懸命生きとられる患者さん達に、若造であるが先生といわれるのが恥ずかしい気がする。今は亡くなられたが、人間的にはすばらしい、あるいは言葉が悪いが、かわいらしい患者さんと多くお会いできたことを本当に幸せに思う。許されるのなら、いずれあの世で再会をして饅頭でも食べながらお茶でも飲みたいものである。
さて、「鬼手仏心」であるが、診察室の壁の色紙に書かれている。この色紙に関して患者さんからよく質問を受けるので紹介させていただく。 まずこの色紙が僕の手元にある理由は、京都大学病院時代にうけもった患者さんから、お世話になったといただいたからである。知恩院の門跡という高僧の方の書かれた色紙で、文句の関係で外科系の先生がもらうと喜ばれるとのことであった。つまり、仏様のような慈悲の心をもって患者さんに接しながら、治療である手術のときは、鬼の手のような、人間らしからぬ、不可能を可能にするような技術を駆使する医者になれるようにと。前説から含めて、できるだけそういう医者になっていれば・・・。 ただ、田中角栄を捕まえた偉い検事もこの言葉を好んだそうである。ところ変われば品変わるで、取り調べでどんな厳しく接しても、慈悲の心をもって接しなさいという事をいっているとの事である。いい言葉は、色々な意味を持つ奥行きの深いものだ。
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